ぼそぼそ

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仲間と異物

男が女を仲間と見做せないように、また女が男を仲間と見做せないように、人はAIを仲間として見ることはできないだろう。男にできて女にできないことがあるように、また女にできて男にできないことがあるように、人にできて計算機にできないことがあり、計算機にできて人にできないことがあるだろう。自分があるものと類似していることは自分とそのものとの差異を際立たせる。ある意味で、類似性は差異増幅装置である。
 表現をより柔らかくすることができるかもしれない: 人が得意で、計算機が苦手なことがある。計算機が得意で、人が苦手なことがある。このことを理解すると、何を作れば良いかがわかってくるように思われる。長い間、人間は自分達が苦手なこととも向き合わざるを得なかった。その過程で仲間のために犠牲を払った者の数は数えきれず、同胞たちのうちの誰がその仕事を負わされたのかについては別に考える必要がある。このような背景、しかもそれは歴史を通じて繰り返されてきたものであるわけだが、そういうものを踏まえるならば、得意な人が少ない仕事を集団の外へと押し付けるというのは一つの効果的な戦略になる。仲間を拡大するのは難しい一方、隣人を拡大するのは非常に容易である: 似ているものは違うものなのだ。そして、あなたと私との違いを見つけることは恐ろしいほどに楽な仕事である。