ぼそぼそ

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ある映画について

この映画について, 公開までは多くのことが明かされなかった. そのことが頭にあるせいか, 名前を出しながら何かを書くような気がしないので, こういう形で書くことにする. 

 この映画は, 人間が生まれてしばらく経ち, 世界の大きな変化を経験するまでの様子を描いているように思われた. 大きな点は二つある: 一つは, 自分には及ばない何かによって自分の生がコントロールされていることである. ここでの生とは産まれることであり, この世に創り出されることである. もう一つは, 産まれてから時間を経るに連れ, 世界は一貫性を失っていくものであるということである. 

 一つ目の点について. これは世界観の表明という側面を持っているように思う. 自分が見えているもの, 経験していること, 見てきたもの, 経験してきたこと, そのようなものごとからは離れた事柄に思いを馳せずにはいられないことがあるかもしれない. この考えに答えを与えてくれる一つのフレームワークとして, 自分よりも高いところで自分の生死を司るものがあるという考え方がある. 人間はどこから来て, どこへゆくのかという問いは, この考え方の上に成り立つ. 

 二つ目の点について. 世界からの一貫性の喪失とどう向き合うかという点である. 生きていくうちに, 多面性に触れることが増える. ものごとのある側面と別の側面とを, 整合性を保って解釈することが難しいことが増えていく. これは自分の認知が広がることや高まることによるものであり, 多くの場合は避けられないものである. 

 二つ目の点に関する, 多面性への直面が, ある特定の事象を巡って発生することがある. この作品では, それは肉親との別離だった. 親の死に目に立ち会えなかった体験・母そっくりの継母・不可解な現象. ものごとの複数の側面のうちの全てが真実である必要はない; 実際, 母は本当に火事で亡くなっていたのだろう. このような事象はしばしば衝撃的なものであって, それを受けた人間の世界の観方を強く操作する. 継母を母と呼ぶようになる人もいれば, そうできない人もいる. 

 一貫した世界を構成するブロックは, しばしばある人の手に握られている. 彼を中心に回っていた世界を, 自分の手で再構築する権利を与えられることがある. 自分の城を建てるのも良いが, 城を打ち捨ててしまうのも良い. 僕たちが見せられたのは, ある人間がした一つの選択である. 自分が見た選択は, 自分が持たない要素に左右されたものかもしれない. 一貫性をめぐる選択は個人的なものであり, 外へ外へと答えを探るのは不毛な結末しか生まないのである.