僕が自分について変化を感じるとき, それは往々にして人間関係を通じてである. 例えば, かつてはしなかったような振る舞いをするようになったことに気づく. あるいは, かつてしていた振る舞いを避けるようになる. 人間の行動はその内面の有り様を映し出すものである. 水面の動きを見極めるためには, 長い間一点を眺め続けなければいけない. より簡便な方法があって, そこに映る像がどのような形をしているか, 同じものを繰り返し映してみて, どのような見え方をしているか, そういうことを見てみるのがよい. 人間の心もまた写し鏡であり, 同じものを前に置いても, 時と場合に応じて違った反射を返してくれる. ものの見え方が変わったと感じたとき, 心の有り様もまた変化しているのだと推論するのである.
人間関係の中で, 思い出したくない経験, 思い出すと消え入りたくなるような経験, そういったものを数多重ねてきた. 恥ずかしさや嫌悪感の裏側には自分が脱ぎ捨てた価値観がある. 変化していく心の有り様は衣服であり, そこには流行り廃りがある. 周りに合わせて振る舞おうとする癖があり, 周囲で重んじられる価値観に対して適応的に振る舞おうとしてきた. しばらく前に着ていた服を古臭いと思うことがある一方で, 手放せない品が存在している. 身体が変わると昔着ていた服を着られなくなるのと同じように, 今では手を伸ばせない昔のお気に入りがある. しかし, 変わらず似た柄や形のものを選ぶことが出来る. 飾ることも出来る.
人間関係を通じて変化を感じているとき, 自分の過去の経験にラベルを付けるだけではなく, 自分が持つ選択肢にもラベルを付けることができる. これは嬉しいことだったり, 悲しいことだったりする, というのも, ラベル付けというのは広げる方向にも, 狭める方向にも働くからである. かつてならば嬉々として飛び込んでいったものに, 危険を見出す. 危険はそこにあるかもしれないし, ないかもしれない. 鏡には色々な種類のものがあって, 美醜を示してくれるものもあれば, 安全と危険について知らせてくれるものもある. 見るも見ないも自分の選択の結果であるけれど, 見ざるを得なくなるものもある.
最近の自分は, 人間関係がもたらす効果のうちの「悲しい」側面に強く影響されている気がしている. 人間関係は怖い. 人という鏡を通じて, 見たくないものを無理やり見させられる. 僕の見たくないものの多くは, 自分の負い目である. したくないこと, 出来ないこと, 出来なかったこと, しなかったこと, それらの結果, すべきでなかったこと, すべきでないこととそれに否が応でも惹きつけられる自分, そのすべてを生み出す自分, それでもなお他人を求め続ける自分.