自分が最高の幸せを得たとき, 自分は全ての罪悪感から解放されているだろうという確信がある. その確信のもと, 自分に罪悪感を与えるものを切り離していくかどうか, 迷っている.
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泣け過ぎず白け過ぎない身の上話のフレームを見つけるのは難しい.
試す
他人と接する時, その人がどのような人なのかという情報を得ようとする人がいる. 彼らにはいろいろな手段がある. 彼らは, 相手に対して直接的な質問をすることができる. 彼らはまた, 相手がどのような振る舞いをするかを観察することができる. どのような行動を取るかは人それぞれであり, また人の勝手であるが, 状況に応じてoptimalな手段というのが存在することが予想される. すなわち, ある場所では直接質問をすることが適切であり, 別の場所ではじっと相手を見ていることが適切である.
彼らが取れる手段のひとつとして, 相手を試すことがある. これは前にあげた二つのパターンのうち後者の類型である. 他人の振る舞いからその人の性質を推定することは手間がかかる. 自分が得たい情報が得られるようなシチュエーションというのは限られていて, 自分の観察リソースにも限界がある. ならば, その下での行動から相手の性質を識別できるような状況を用意して, 相手をその中に放り込んであげればよい.
この行動は, 多くの人に嫌悪されている. 僕には今ひとつ理由がわからない. 他人に試されるのは, 手のひらで転がされているように思われるのかもしれない. チョロい人間だと思われているように感じられるのかもしれない. なぜ?
憧れ
手に入れたくて, それでも手に入らないものに憧れる.
僕の憧れは自由で, これからもそうあり続けるだろう. 僕はある人々の振る舞いを自由だと認識して, それを追い求めている. 天才は自由だと感じている.
善意を善意で踏みにじる
自分の善意とエゴとを切り分けることはしばしば難しい. 善意にエゴが混ざり, エゴに善意が混ざる. 良かれと思ってしたことは気持ちよい. 気持ちよいことを良かれと思ってする.
善意がこもった行為には必ず目的がある. 普段は行動の裏に動機を置かないひとであっても, 善意をこめるときには必ず例外が生まれる. 善意は動機に対して人間が与えるラベリングである. 順番を間違えてはいけない.
動機を込めた行動から予想だにしない結果が生まれる. 驚きがあり, そこに人間は反応をし, またラベルを付ける.
予想だにしない, それよりも予想の端っこにある, 微々たる可能性がピンポイントで撃ち抜かれるようなこともある. 自分の愚かさを呪えばいい, というのもその結末は確かに見えていたものなのだから.