他人を怖がる人がいる. 人を怖がることそれ自体は自然なことである. 他人からは物理的な痛みを加えられるかもしれないし, 何もした覚えがないのに怒鳴られるかもしれない. 面と向かって侮辱されることもまた, 僕自身は怖いとは思わないが, 怖いと思う人もいるだろう. しかしながら, 中には側から見ていて危害を与えそうにない人間を怖がる人がいる. なぜだろう?
人間は多面的であり, 自分の視野がその全てを捉えられるわけではないという指摘がありうるだろう. 尤もである. 温和に見えるあの人は, 自分の見えない所で他人にきつく当たっているかもしれない. 目の前で怖い怖いと言っているその人がその対象になるのかもしれない. 家族ぐるみの付き合いのある友人が, 親によく殴られるのだと話していたことがある. 隣の家に越してきた優しそうな若い夫婦が, 小さい子どもを夜に家の外に放り出して泣かせていたのを見たことがある. 人間は中身の入れ替わるびっくり箱で, 何が出てくるかは開ける人によるし, 開けるタイミングにもよる.
しかし, ある人が, それでもなお多面性を見出すことが難しいような人を怖がっている場合, どのように捉えればよいだろう?
恐怖を, 見たくないものを見せられたときに生じうる感情の一部だと考えてみよう. ここでは, 感情は二次的なものであり, 見たものに対する反応へのラベリングによって生まれるものだと考える. この仮定のもとで, 「なぜ怖がるのか」という疑問は「なぜ見たくないのか」という疑問へと落とし込まれる.