ぼそぼそ

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言葉の壁

言葉の壁というのはだいぶ薄くなった印象がある. この壁を薄くしたと喧伝されるものの中には技術が存在していて, そのさらなる発展が壁をなくすのではないかと言われるのを目にする*1.
 しかし, 薄くなっただけでそこに壁は変わらず存在していて, なおかつ壁自体は決して無くならないという印象もまたある. 言葉の壁は薄くこそなれ, 割れやすくなったり, ましてやなくなったりはしないのではないか, ということである. 

 言葉の壁というのは光を通す壁で, フィクションの作品に出てくる水中都市のドームの膜のようなものを思い浮かべている*2. それぞれの言語は光を放つと考えよう. 言語が放つ光は, その光の特性や壁の特性に応じて言葉の壁を抜けてくる. 一つの言語しか解さない人々もまた, その光に当たることが出来る. 

 印象的な経験として, 情報へのアクセス可能性というのが存在する. それぞれの言語が持つ言語圏が一定程度閉じているようなものだと考えよう. 一つの言語圏の中で生活しているとき, 自分たちが触れる情報の一定程度がその言語で表されている. 一定程度がどの程度であるかは様々な要因に依存していて, その中にはどの言語圏に生きているかという場所の問題だったり, 個人がその言語圏の中でどのような場所に居るかという問題が含まれる. このように言語圏を捉え, 一つの言語圏に身を置くことを仮定すると, 別の言語で表現された情報にアクセスする可能性は, その言語圏を定義する言語で表現された情報にアクセスされる可能性より低くなるだろう. 

 自分が身を置く言語圏は, 自分がどの情報に触れるかを操作する. 自分の経験をさらに述べていく. 現在の僕がアクセスする情報は日本語, 英語, フランス語, ドイツ語で表されている. 5年前はどうだったかというと, 日本語と英語だけであった. さらに5年遡ると, ほとんどが日本語だった.

 僕がこれらの言語の一つ一つを用いてアクセスする情報にはそれぞれ特徴がある: ある言語と特定の情報群の間に結び付きが存在する. この対応関係は時間を通じて変化してきた. そして, 対応関係の変化に応じて, あるラベルで整理されている情報群の中身もまた入れ替わってきた. 

 僕の感覚は, 自分の触れる情報のうち外国語で表現されたものの割合を一定程度まで増やさない限り, そもそも触れられない種類の情報があるだろうという問題である. 技術は触れた情報を別の言語で表現させることが出来るが, 他方でどの情報に触れるかどうかを操作することは出来ないのではないかと考えている. 水中都市の例えに戻れば, 自分のドームの中に入ってくる光を認識することが出来るようになり, その光を自分たちの言語が発する光へと変換することができるようになった. しかし, 相変わらずドームはそこに存在していて, 自分たちのところまで届かない光があるということである. 

 こういうことを, chatGPTの出力を日本語のプロンプトと英語のプロンプトとで比較する人たちを見ながら思ったような, 思わないような. 日本語のそれとくらべて, 英語のchatGPTにはディベートに関連する大きなコーパスが含まれているのだと言っている人がいた. 僕自身は日本語のプロンプトを一度も使ったことがないから, どうなっているのかを感じたことすらない. 

 

*1:例えば, 機械翻訳. 僕はこの一例しか思い浮かばないが, より高次のものが存在するようにも思う.

*2:スター・ウォーズの惑星ナブーに生きているグンガンたちの水中都市が僕の頭に浮かぶ